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  <title>TokyoBlog@携帯　Blog,CMS,SNS,Wiki,Joomla,Pligg</title>
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 <title>古代史の旅４：スサノオの天羽々斬剣と日本武尊の草薙剣  :: 歴史随想</title>
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 <description>三種の神器とは、八咫鏡、八尺瓊勾玉、、天叢雲剣（草薙剣とも言う）のことである。現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているという。このうち、聖剣の天叢雲剣は、記紀神話...</description>
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 <pubDate>Fri, 12 Mar 2010 10:13:25 +0900</pubDate>
 <category domain="http://192.168.1.2/index.php?mode=category&amp;sub=歴史随想">歴史随想</category>
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 <![CDATA[<p><strong>三種の神器</strong>とは、八咫鏡、八尺瓊勾玉、、天叢雲剣（草薙剣とも言う）のことである。現在では八咫鏡は伊勢の神宮の皇大神宮に、天叢雲剣は熱田神宮に神体として奉斎され、八尺瓊勾玉は皇居の御所に安置されているという。</p>
<p>このうち、聖剣の天叢雲剣は、記紀神話では須佐之男命が出雲・簸川上（ひのかわかみ）で倒したヤマタノオロチの尾から出てきた剣である。その後草薙剣とも言う理由は、倭建命に渡され、倭建命が野火攻めから脱出する為に、この太刀で草を薙いだ事が草薙剣の名前の由来とされている。。『先代旧事本紀』では饒速日の子が天香語山命で、天から降った後の名が手栗彦命亦の名が高倉下で、その子が天村雲命となっている。その名から天叢雲剣を草薙剣とも言うのかもしれない。</p>
<p>一方、須佐之男命が、出雲・簸川上（ひのかわかみ）でヤマタノオロチ（八俣大蛇）を倒した剣は、十拳剣と言われている。別名は、天羽々斬剣（あめのはばきり）であり、“羽々”とは“蛇”の意味である。「十握剣」は、その長さ表わし、長剣であったことがわかる。この十拳剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる。布都御魂剣(フツノミタマノツルギ) とも言われている。一説には、布都御魂剣と十握剣は別物（呼び名が異なる）とも言われる。布都御魂剣は平国之剣とも言われ、神武天皇が高倉下（たかくらじ）より受けとり大和を平定した時に用いた剣であり、布都御魂剣を神格化したものが布都御魂大神とよび、十握剣を神格化したものは布都斯御魂大神（フツシノミタマノツルギ） なのだそうである。一文字「斯」があるかないかの差である。石上神宮の祭神には、布都御魂大神 配祀神 布留御魂大神、布都斯魂大神、宇麻志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命となっており、この聖剣の御魂も配祀されている。そして、大蛇を切ったときの剣が、石上にあると日本書紀には書いてあります。</p>
<p><strong>聖剣の歴史を訪ねると、悲運の日本武尊、入水した安徳天皇、祟られた天武天皇、新羅僧の道行や聖剣を盗み見た神主などの数奇な伝承がに彩られている。</strong></p>
<p><strong>この２つの聖剣の行方には、歴史の謎が含まれている。何故、出雲の十拳剣が、奈良の石上神社に祀られ、草薙剣が出雲から熱田神宮に祀られるようになったのであろうか。誰が、どのように聖剣を継承したのであろうか。そして、三種の神器として 、皇位継承の徴として天皇に受け継がれるようになったのであろうか</strong>。</p>
<p>なにぶん、長い歴史の間に継承されたので、さまざまの伝承があるが、年代順に調べてみたい。</p>
<p><strong>１：出雲の斐伊川の川上</strong></p>
<p>須佐之男命は、出雲の斐伊川の川上に降り立ったといわれる。スサノオが高天原を追放になった後、やってきたところは、古事記では、「故所避追而。降出雲國之肥(上)河上名鳥髮地」、日本書紀では、「素戔鳴尊自天而降到於出雲簸之川上」となっています。「肥」を「簸」の違いが気になりますが、出雲の斐伊川の川上のようです。船通山(1142ｍ)の麓に、鳥上(ﾄﾘｶﾞﾐ)があります。これが古事記にある鳥髮と思われます。</p>
<p><strong>２．ヤマタノオロチ退治とは何か</strong>スサノオは出雲國の肥の河の上流の鳥髮の地の川上で、泣く老夫婦に合う。大山津見神(ｵｵﾔﾏﾂﾐﾉｶﾐ)の子の老父と老女である。「私の名は足名椎(ｱｼﾅｽﾞﾁ)と謂う。妻の名は手名椎(ﾃﾅｽﾞﾁ)と謂う。娘の名は櫛名田比賣(ｸｼﾅﾀﾞﾋﾒ)と謂います」そして「私の娘は、元八人の幼い子がいました。そして、高志の八俣の遠呂智が毎年来て喫(ｸ)ってしまいました」と聞く。そこで、このオロチに酒を飲ませて、十握剣で退治する。日本書紀では、「素盞嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。此所謂草薙剣なり。素盞嗚尊の曰はく、「是神しき剣なり。吾何ぞ敢へて私に安けらむや」とのたまひて、天神に上献ぐ。」とある。</p>
<p>田村誠一氏は、この話は、タタラ製鉄の村主を退治した話であろうとしている。山の傾斜に窯を作り、高温を作り出す窯があり、八つの頭も八つの尾をもち、チラチラと炎が噴出する製鉄所があったのかもしれません。鉄を作るためには、膨大な木や炭が必要です。これを運ぶために、川が使われ、そしてそこを船が通りましたので、山の名前が「船通山」と呼ばれたようです。</p>
<p>京都の祀りは、八坂神社というのは全国に７千ほどある。祭神はスサノオノ命である。命は出雲に住んでいたが、韓国の新羅が故郷であったのか、新羅のソシモリにも住み、日韓の間を往来していたとも日本書紀などで書かれている。スサノオ自身が、鉄の生産や交易に係っていたのかもしれない。</p>
<p><strong>出雲大社と熊野大社の関係</strong></p>
<p>『出雲國風土記』に熊野大社、『延喜式神名帳』に熊野坐神社と見える神社が出雲にあり、主祭神は加夫呂伎熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくしみけぬのみこと)と称える素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。『日本書紀』に出雲國造をして厳神の宮を作らしむとの記載があるが、八束郡八雲村宮内にある熊野神社かもしれない。天菩比命の子、建比良鳥命は出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等の祖である。そして、出雲大社には、大国主命が祭られていますが、大国主命はスサノオの孫ということになっています。出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する神聖な「火」をおこすためのひきり臼とひきり杵を受け取るために熊野大社を訪れます。「古伝新嘗祭」とは出雲国造の祭ですが、この祭のなかで出雲国造とその祖先神であるアメノホヒノミコトとが、ご一緒に食事をなさる儀式（相なめの儀）があり、このときに用意される食事はすべて神聖な鑚火（きりだした火）でつくります。この火をきりだすための臼と杵を「ひきり臼・ひきり杵」といい、毎年熊野大社から授けることになっています。</p>
<p><strong>３．神剣奉天神事：スサノオから天照大神へ草薙剣が渡される</strong></p>
<p>日御碕神社（大社町）は、上の宮に素盞嗚尊、下の宮に天照大神を祀っている。この神社の宮司小野家は素盞嗚尊五世の孫天葺根命の後裔と伝えている。天葦根命は、素盞嗚尊が八岐大蛇（やまたのおろち）を退治したとき、その尾から出たという草薙剣、もとの名は天叢雲剣といわれる神剣を素盞嗚尊の使者として、天照大神に献上したといわれる。この故事にちなんで、毎年大晦日の深夜、小野宮司ただ1人で、天一山に登って行われる神秘的な神事がある。</p>
<p>ずいぶん後世になって、天葦根命が聖剣を渡したようですね。</p>
<p><strong>４．布都御魂剣：天照大神から高倉下を経て神武天皇に</strong>布都御魂剣は平国之剣とも言われ、神武天皇が高倉下（たかくらじ）より受けとり大和を平定した。天照大神が、高倉下に託した。『勘注系図』では、高倉下命を天村雲の弟とする。一方『先代旧事本紀』は天香語山命と高倉下、手栗彦命は同一人物とする。尾張氏系譜では、高倉下命は天香語山命の亦の名とする。</p>
<p><strong>５．物部神社の布都御魂剣伝承：神武から饒速日命・宇摩志麻遅命に</strong></p>
<p>御祭神宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られていおります。 御祭神の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯（いかるがみね）に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。 神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くしたので天皇より布都御魂剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、布都御魂剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。（鎮魂祭の起源）</p>
<p>石上神社は、石上振神宮・石上布都御魂神社・石上布都大神社。岩上大明神・布留大明神などと呼ばれた。『記紀』に、神武天皇東征のとき天降り、邪神を破り、国々を平定したので、物部氏の遠祖宇摩志麻治命（うましまじのみこと）をもって宮中に奉斎したと記し、崇神天皇七年物部伊香色雄命（いかがしこおのみこと）が大臣のとき、詔により天社、国社を定め八百万神を祀らせ布留御魂神とともに石上高庭の地に祀ったのを創始とする。その後、物部氏の歴代奉仕するところとなり、『垂仁紀』には五十瓊敷命（いにしきのみこと）が剣一〇〇〇口を作って神倉に納め、また丹波国桑田村の人甕襲（みかそ）が八尺瓊勾玉を献じた、とある、延暦一三年（七九四）桓武天皇による山城遷都に際し、神宮の神宝を京に移すことがあり、造石上神宮使石川吉備人は運搬に要する人員を一五万七〇〇〇余人と返答したという。後、天羽斬剣、天日槍の神宝寄贈などを合わせて、古代の武器庫ともいうべき御神宝類を蔵していた。</p>
<p><strong>宇美神社の伝承：布都斯は、須佐之男の別名。布留は饒速日命の別名</strong></p>
<p>宇美神社(島根県平田市平田)は、布都御魂を素佐之男の父親として祀り、総社神社は布留を素佐之男の子として祀り、このことから、布都(素佐之男の父)と布留(須佐之男の子)の間の布都斯は、須佐之男の別名である。そこで、十握剣は、布都斯の御魂ということになるようです。</p>
<p><strong>６．備前の石上布都魂神社の伝承：天羽々斬剣</strong>ここは元石上であり、天羽々斬剣はここから奈良の石上神社に移されたとしている。社伝によれば、仁徳天皇の御代に、春日臣の族の市川臣（石上神社に市川臣命として配祀されている）が遷したようです。『石上布都魂神社略記』（昭和二十年頃）には、「古事記、日本書紀、古語拾遺という本によりますと素盞嗚尊が天上（高天原）から天降られて出雲國の簸（ひ）の川上で八岐大蛇をお斬りになった際、大蛇の尾から一振りの剣を獲られた。その剣を天照大神に奉られた。　また大蛇をお斬りになった剣を　「蛇の麁正」（おろちのあらまさ）　「羽羽斬剣」　または　「布都斯魂剣」　と申し上げ、この剣が吉備神部許にあると記されていますが、これが当社の鎮祀されたおこりであります。　なお布都斯魂大神は仁徳天皇の御代に大和國石上神宮（現在の奈良県天理市布留）へ当社からお遷りになりおまつりされております。」</p>
<p>また、神剣「十握劒」を石上神宮に奉遷したことが奈良の石上神宮の記録にも残されている。大正十五年発行の石上神宮由緒記に、「（略）斬八岐大蛇とありて、もと備前国赤坂宮にありしが、仁徳天皇の御代、霊夢の告によりて春日臣の族市川臣これを当神宮に遷し加え祭る」とある。</p>
<p><strong>日本書紀別伝：太刀一千口を石上神社に</strong></p>
<p>「垂仁天皇の時、その皇子である五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥の河上で太刀一千口を造らせ、その太刀を初め忍坂邑に納め、次に石上神社に移し納めた。この時に神託があり「春日臣の一族である市河という者に治めさせよ」とあったので、市河に命じて治めさせた。この市河は今の物部首の祖先である。</p>
<p><strong>７．日本武尊が持参した草薙剣</strong></p>
<p>日本武尊は、東征の際に伊勢神宮にお参りし、倭姫命から草薙剣を受け取る。倭姫命に辞して曰はく、「今天皇が命を被りて、東に征きて諸の叛く者どもを誅へむとす。故、辞す」とのたまふ。是に、倭姫命、草薙剣を取りて、日本武尊に授けて曰はく、「慎め。な怠けそ」とのたまふ。〔巻第七、景行天皇四十年十月戊午(7日)条〕</p>
<p>伊勢神宮の斎宮（磯宮）にいた倭媛[やまとひめ]命から守護刀として天叢雲剣を与えられ、タケルは東夷征討へと向かう。途中、賊（『古事記』は相模国「国造」と記す）の策略にはまり、野火に囲まれる危機をむかえる。書紀は「一説に」として、このとき「皇子の差しておられた天叢雲剣が、自ら抜けだして皇子の傍の草をなぎ払い、これによって難を逃れられた。それでその剣を名づけて草薙という」と、剣名の変更由来および剣の霊験あらたかな旨を書いている。第十二代景行天皇の時代、日本武尊は草薙剣を持って蝦夷征伐を行い活躍したあと、妃の宮簀媛命のもとに預けた。日本武尊が三重の能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定めて、草薙剣を祀った。</p>
<p><strong>８．清水市の草薙神社の伝承：草薙剣</strong></p>
<p>日本武尊の死後、景行天皇が、日本尊命の勲功の地を尋ねられ、景行天皇五三年九月二十日に当地に御着になり、一社を建立したのが、当社の創祀。日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣 を奉納された。その後、草薙の剣 は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により、熱田神宮に奉祀されたという。</p>
<p><strong>９．天智天皇の時代に沙門道行が草薙剣を盗む</strong></p>
<p>沙門道行、草薙剣を盗みて、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、荒迷ひて帰る。〔巻第二十七、天智天皇七年是歳条〕盗まれたとき熱田神宮清雪門を通ったといわれ、以来不吉の門として忌まれたとも、神剣還座の際、門を閉ざして再び皇居へ還ることのないようにしたものともされ以来、開かずの門となっている。社伝によると道行はその後捕らわれの身となり、草薙剣は宮中で預かることになった。686年（朱鳥元年）になって、草薙剣は熱田神宮に返還された。ただしこれは、天武天皇が草薙剣の祟りによって病を得て崩御したことがきっかけであったとされる。阿遅速雄神社（八剣神社）の伝承では、天智天皇7(668)新羅の沙門道行が熱田の神剣を盗んで逃げるとき、神剣を河中に捨て、里人がその剣を拾い当社に納めたのが創始と伝う。例祭日には熱田神宮より宮司、或いは神職が参拝し、同様に熱田神宮の例祭日には、当社の宮司・氏子総代等が参列する慣習が現在も遵守されている。「船にて本国へ帰途、難波の津で大嵐に遇ひ流し流され、古代の大和川河口であった当地で嵐は更に激しく、これ御神罰なりと御神威に恐れをなし、御劔を河中に放り出し逃げ去りたり（之が地名となり、放手　放出　今「はなてん」と云ふ）」とある。御祭神は阿遅耜高日子根神(迦毛大神)と草薙御神劔御神霊(八劔大神)。愛知県知多市八幡にある法海寺は道行が開いたと伝わるお寺である。由緒には「捕らえられた道行が高僧である事が認められ、天智天皇の病を加持法で治し、薬師如来を本尊とする法海寺の基礎とした」と伝わり、山門前の石柱には「天智天皇勅願所」と書かれているそうです。</p>
<p><strong>１０．熱田神宮の酔笑人(えようど)神事</strong></p>
<p>熱田社では、突然の神剣の還座に大喜びの様子が神事として伝わる。毎年５月４日の夜７時に境内の灯りを全て消し、古来より見る事を禁られている神面を狩衣の袖に隠し、先導役の笑いを合図に、祭員が一斉に大声で笑うという「酔笑人(えようど)神事」です</p>
<p><strong>１１．天武天皇が草薙剣の祟りで病になる</strong></p>
<p>戊寅に、天皇の病を卜ふに、草薙剣に祟れり。即日に、尾張国の熱田社に送り置く。〔巻第二十九、天武天皇下、朱鳥元年六月戊寅(10日)条〕宮簀媛は、タケルの忘れていった神剣をまつる社を建てたとされ、書紀は「草薙剣は、いま尾張国年魚市[あゆち]郡の熱田神宮にある」と記す。熱田神宮の神剣はその後、天智七年（六六八）に新羅僧・道行によって持ち去られたが、紆余を経て宮中にもどり、朱鳥元年（六八六）に天武天皇の病気が草薙剣の祟りであるとして熱田神宮に返却される（日本書紀）。「熱田大神鎮座記」は、朱鳥元年（六八六）六月に「天武天皇の勅命」によって草薙剣が返却され、「このとき改めて大宮や別宮諸神社を造営して、十二月に新宮に遷宮の儀を行った」と記録している（宮庁編『熱田神宮』）。この記録を真とするなら、和銅元年（七〇八）の勅命による別宮・八剣宮の創祀の前に、すでに天武によって「別宮」祭祀がはじまっていたことになる天武が「宿願」によって神宮の式年遷宮の制を定めたとされるのは天武十四年（六八五）のことだが（『太神宮諸雑事記』）、翌年の朱鳥元年九月九日に彼は他界する。『日本書紀』は天武を死に追いやった「祟り」の真相を明らかにしないが、元明女帝が別宮・八剣宮創設の勅命を発したのは和銅元年「九月九日」のことで、彼女は天武の命日をもって、新たな「別宮」祭祀を熱田神宮に命じたことになる。別宮の八剣宮の祭神も本宮と同神、つまり草薙剣によりつく神霊・熱田大神とされている</p>
<p><strong>１２．壇ノ浦の戦いで海底に沈んだ天叢雲剣</strong></p>
<p>『吾妻鏡』に、壇ノ浦の戦いで「二位ノ尼は宝剣（天叢雲剣＝草薙剣）を持って、按察の局は先帝（安徳天皇）を抱き奉って、共に海底に没する。」とある。また戦いの後の元暦二年に戦いでの平氏方の戦死者、捕虜の報告に続いて「内侍所（八咫鏡）と神璽（八尺瓊勾玉）は御座すが。宝剣（天叢雲剣）は紛失。」と記されている。古くから唱えられた説のひとつである。この説の元となっているのは伊勢神宮を司る忌部氏が持統天皇に鏡と太刀を渡した事に由来する。この時の太刀が天叢雲剣と八咫鏡と言うところから出ている説であるが定説はレプリカではないかと言われている。『平家物語』では、オロチが安徳天皇となって天叢雲剣を取り返しに来たとしている。</p>
<p><strong>鹿島神宮の神剣：武甕槌大神の神剣</strong></p>
<p>鹿島神宮には日本最古最大の直刀、御祭神タケミカヅチの神剣「フツノ御霊の剣」（推定1300年前製作）が展示されています。この神剣は刀身2メートル25センチ、全長2メートル71センチのまっすぐな直刀です。</p>
<p>鹿島は武道発祥の地である。仁徳天皇の時代（4世紀）に、鹿島神宮の神官で国摩真人（くになずのまひと）という人物がいた。高天原の鬼塚に祭壇を築き、鹿島神宮の武甕槌大神から「神剣の極意」を授かったという。これが「日本の剣術の始まり」と伝わる。常陸国の防人（さきもり）たちは鹿島神宮に集まり、神官から剣術を教わり「鹿島立ち」していった。諸国から派遣された防人と交流し、鹿島の剣術が広まっていった。こうして築かれた武芸は、後の塚原卜伝（ぼくでん）につながっていく。</p>
<p>芦原中国（あしはらのなかつくに）を天照大御神（高天原総帥）の子孫に治めさせるために，その一部である出雲地方総帥大国主命の協力を得ようと，３度目の交渉に向かわせたのが武甕槌神です。『日本書紀』では主神が経津主神，副神を武甕槌神としている。『古事記』では主神を武甕槌神，副神は天鳥船神と記述されている。布都御魂剣は武甕槌神が大国主命に国譲りを迫ったときに使ったものとされている。さらに神武東征のおり、武甕槌神が高倉下に布都御魂剣を授けたという話が日本書紀にのっている。石上神社の布都御魂と鹿島神宮の布都御魂剣の関係はよくわからない。</p>
<p>ただし、国宝の神剣は「・・・刀身は、奈良〜平安時代に、拵えは平安時代の制作と考えられ、その長大な刀身は例を見ない。また、鹿嶋の砂鉄との関連については証明できないものの常陸国風土記の記述もあり、貴重な文化遺産である」と書かれている。</p>
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 <title>古代史の旅３：讃岐の古墳時代の王族、神櫛王と鷲住王  :: 歴史随想</title>
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 <description>鷲住王は、讃岐と阿波の海部の祖であり、相撲の神ともいわれる力持ちの自由人であった。&amp;amp;#39933;魚礒別王（フナシワケ）の子供と言われ、妹の二人「太姫朗姫（フトヒメノイラツメ）」と「高鶴（タカツル）朗姫」は履中天皇の妻となっている。...</description>
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 <pubDate>Sun, 07 Mar 2010 17:25:48 +0900</pubDate>
 <category domain="http://192.168.1.2/index.php?mode=category&amp;sub=歴史随想">歴史随想</category>
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 <![CDATA[<p>鷲住王は、讃岐と阿波の海部の祖であり、相撲の神ともいわれる力持ちの自由人であった。</p>
<p>&amp;#39933;魚礒別王（フナシワケ）の子供と言われ、妹の二人「太姫朗姫（フトヒメノイラツメ）」と「高鶴（タカツル）朗姫」は履中天皇の妻となっている。鷲住王が「恆に住吉邑に居り」とあるが、履中天皇は鷲住王を召したが行方が分からず、召すのを諦めたとある。行動的で、讃岐、阿波、土佐方面の海部の村々で活躍している。</p>
<p>景行天皇と五十河媛の間の子、櫛皇子が讃岐國造の始祖なり(書紀巻7）その三世、須売保礼命の子が魚即魚磯別王とされる。</p>
<p>脚咋別は、阿波國海部郡の肉咋（徳島県海部郡宍喰町）であるが、鷲住王は、宍喰川の流域を開拓し、農耕をはじめ、そこにはじめて邑をつくったとされる。『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。鷲住王は阿波の却咋より、鵜足郡富隈村に移り住み、讃岐で薨玉し、飯山に葬ったと三代実録に記述がある。</p>
<p>履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物であるが、香川県の讃岐富士の麓の坂本町に、面白い伝承がある。</p>
<p>高木神社&amp;#44;香川県丸亀市土居町2-&amp;#44;(主神)鷲住王</p>
<p>大山神社&amp;#44;徳島県海部郡宍喰町塩深字尾鼻&amp;#44;(主神)鷲住王命</p>
<p>城山の西方約２km西坂元の国持地区に居館を構えた。西坂元山ノ越に呉羽神社が祀られ大灯籠｢みひ｣の傍らに鷲住王についての石碑が建っている。坂元村史に｢楠見の城山あり、戦国時代高木隼人の居城で高木屋敷は国持にあり、鷲住王の後裔高木隼人の住居跡と認められる｣とある。</p>
<p><strong>輝く星の氏子われ−坂本神社由緒−</strong> 秋風そよぐ夕まぐれ、飯野の山は神さびて、星のまたたく宵なりき。 国持の里　鵜殿の越し、五の坪・倉前・馬倒し古き地名は今もなおここなしここに残れども、世の盛衰はいちじるしく。高木屋敷はいずこにや、梅の香りはなけれども、星の輝く丘なりき。 </p>
<p>南海治乱記によれば、鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。</p>
<p>薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。その後、康保元年、菅公修造を加え軍神となす。祈れば必ず勇力を賜ると。初めに王に男あり。高木尊と云い、讃岐国造に任ず云々と日本書紀にもあり。</p>
<p>鷲住王もその跡も、遠い遙かの昔より、今に輝く天の星。小さいながら私らも、これにつながり生きる星。飯野の山を仰ぐ時、輝く星の氏子われ、氏子のわれらここに輝く。（昭和六十年六月吉日） </p>
<p>略系図は、以下のようになる。</p>
<p>景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君</p>
<p><strong>景行天皇以降の讃岐の王族</strong></p>
<p>景行天皇の時代に、その命により、日本武尊は、東国を平定しその帰途に鈴鹿で亡くなられた。東国の平定は、日本武尊に従ったのが稚武彦命（吉備武彦）と大伴武日であり、日本武尊の死を天皇に報告する役回りとなったのも吉備武彦であった。</p>
<p>景行天皇の皇子、皇女はたくさんいて、日本武尊と稚足彦尊と五十城入彦皇子を除いた御子はそれぞれ国や群に封じたという。あまりに、たくさんですが、母系で見れば、地域との関係が判りやすい。東国遠征により、その後の美濃の八坂入媛の氏族が東国で反映する基盤となった。</p>
<p><strong>主な景行天皇の皇子：日本書記</strong></p>
<p>景行天皇（美濃の八坂入媛）---稚足彦尊（成務天皇）、五百城入彦、五十狭城入彦など</p>
<p>景行天皇（妃、播磨稻日大郎姫）---双子の男子：大碓皇子と日本武尊（小碓皇子）</p>
<p>景行天皇（妃、五十河媛）----神櫛皇子（讃岐の国造の祖）と稲背入彦皇子（播磨別の祖）</p>
<p>景行天皇（妃　阿部氏木事の娘の高田媛）---武国凝別皇子（伊予国御村別の祖）</p>
<p><strong>日本武尊の系譜</strong></p>
<p>吉備と播磨の発展も、播磨稻日大郎姫や吉備武彦一族によるところが大きい。</p>
<p>日本武尊（妃　穂積忍山宿禰の娘の弟橘媛）---稚武彦王</p>
<p>日本武尊（妃　両道入姫皇女）---稲依別王（犬上・武部君の祖）、足仲彦尊、布忍入姫命、稚武王</p>
<p>日本武尊（妃　吉備武彦の娘の吉備穴戸武媛）---武卵王（讃岐綾君の祖）と十城別王（伊予別君の祖）</p>
<p>景行43年；景行天皇は日本武尊の功績を伝えようと思い武部を定めた。</p>
<p>景行51年：日本武尊が神宮に献上した蝦夷を遠くに置くことにした。播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の五つの国の佐伯部（さえきべ）の先祖。</p>
<p>景行52年：皇后の播磨大郎女が亡くなり、八坂入媛命を立てて皇后とした。</p>
<p>景行55年：彦狭島王を東山道十五国の都督に任じたが、春日で亡くなり、子の御諸別王に任じる。</p>
<p>景行60年：冬に天皇は高穴穂宮で崩御</p>
<p>以上が、日本書記に書かれた主な出来事です。</p>
<p><strong>讃岐の神櫛王</strong></p>
<p>『神櫛王』は讃岐国造の祖といわれ、その墓は、『牟礼の王墓』にあり毎年十月二十日には宮内庁からも来讃されちるようです。宮内庁所管で守部を置き、毎年王の命日(１０月２０日)を正辰祭と称し例祭を行うとある。</p>
<p>ずいぶん、人気のある王であり、広く讃岐の神社に祀られている。陵墓は、讃岐の城山と櫛梨と王墓(木田郡牟礼）の三説がある。寒川・三木・山田三郡の戸主であった讃岐氏は、王の子孫で、後の寒川・高松・植田・三木・十河・三谷・神内・山田・由良の諸氏は皆その後裔という。阿波脚咋・宇陀酒部・凡・神内・木国酒部・酒部・讃岐・紗抜大押・十河・星・三谷・益甲・和気なども同族とのことである。</p>
<p><strong>神櫛王は宇陀酒部等の祖</strong></p>
<p>宮道氏（みやじし）は、日本武尊の子である武卵王（たけかいこのみこ）の子孫と伝える宮道別の後裔氏族と推察される。山城国宇治郡（京都府京都市及び宇治市）を本拠とした宿禰姓の宮道氏が最も知られた。宇治郡大領だったと伝えられる宮道弥益の娘（一説には妹）宮道列子は、内大臣藤原高藤との間に藤原胤子（宇多天皇女御）らを産み、醍醐天皇の外祖母となった。宮道神社（みやじじんじゃ）：宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神である日本武尊・稚武王を祀ったことに始まる。また、山科神社立札によると「日本武尊・ 稚武王を祀る。社伝によれば寛平九年（897）宇多天皇の勅令により創建されたと伝え、以後、この地の豪族宮 道氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神として人々の崇敬を受けて栄えてきた。</p>
<p><strong>櫛梨神社　神櫛王命</strong>社伝によれば、「景行天皇の命を受けた神櫛皇子が、大魚（海賊の比喩か）を討つために土佐から、舟に乗って当地へ来た時、雲が厚く、雨が降り、何も見えない状態になった。そこで、皇子は小山に登り、天に乞うたところ、天から火が降りて来たという。皇子はそこに舟をとどめ、祓戸神（磐船大明神）を祀った。また、当地の神を祀るため、翁に、この地の神についてたずね、大麻神・大歳神、更に、山下明神・諏訪明神を祀った。さらに、船装束する時に、経津主神・武甕槌神（赤坂大明神）を祀った。その後無事に、大魚を討ち取って当地に城山を築き、国造となった。仲哀天皇８年（１９９）９月１５日。１２０歳で亡くなった皇子を櫛梨山に葬り廟を建てて祀ったのが当社の起源。国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という」とある。</p>
<p><strong>大麻神社　善通寺市大麻町</strong>穂積忍山彦根は、景行天皇の御代、その皇子・神櫛皇子命の勅により、当社を祭祀したという。穂積忍山彦根は、穂積忍山宿禰（物部氏の祖とも言われる穂積家）は、弟橘姫と忍山彦根の父である。神櫛皇子とともに、讃岐に定着したようです。（穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖）父親の穂積忍山宿禰は相模の国の西側の磯長の国の領主になった。</p>
<p>物部の系図では、饒速日尊−宇麻志麻治命−彦湯支命−大禰命−出石心大臣命−大綜杵命−伊香色雄命−大水口宿禰命−建忍山宿禰→弟橘媛 </p>
<p><strong>皇子神社　丸亀市綾歌町岡田上　神櫛王命</strong>香川県神社誌によると「祭神は景行天皇の皇子にして當国国造の始祖たるを以て里人其の徳を慕ひて奉祀すといふ」とある。</p>
<p><strong>富隈神社　香川県仲多度郡満濃町</strong>祭紳は吉備武彦命で、命は神櫛王の悪魚退治に従軍した部将で、仲多度郡の海岸に近い、多くの神社の祭紳として祀られいる神である。</p>
<p><strong>皇美屋神社　善通寺市与北町　大己貴命　神櫛皇子　大伴武日連命</strong>　景行天皇の御宇南海の悪魚討伐の為め神櫛王、大伴武日、吉備津武彦と共に當地に下り給ひし時、大己貴命および國魂神を祀りて皇美和の社と称し悪魚討伐を祈り給ひしに始まり、悪魚平定の後里人其の徳を欽慕して皇子及び大伴武日連命を配祀せりといふ」とある</p>
<p><strong>城山神社</strong></p>
<p>「城山神社由緒略記」には、「 ... 景行天皇はこうした勇気ある神櫛王を「讃岐の国造」としました。神櫛王は城山に城を築き讃岐の国を治めた。」とある。</p>
<p>清水神社　高松市川島町</p>
<p>三谷神社　綾歌郡飯山町</p>
<p><strong>海部を統括した凡直氏と讃岐公</strong></p>
<p>寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王（景行天王皇子）の流をを汲むものである。　神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直（ほしのあたえ）は、国を押し統べるという意味で大押直（おおしあたえ）の姓（かばね）を賜い、のち凡直と改めたが、延暦１０年（７９１）願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和３年（８３６）にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。</p>
<p>凡直（のべのあたい）氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直（さぬきおおしのあたい）の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の真鍋（真部）一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしている。</p>
<p>安岐・周防・淡道・伊余・都佐などの諸国造は凡直の姓を持つ。 讃岐も凡直を称することがあるが、大押直の意で、所部の地域を統率するいわゆる大国造であったことを示す。</p>
<p><strong>建貝児王は、神櫛王とは、別人</strong></p>
<p>日本武尊が『神櫛王』の兄で、讃岐綾氏の祖といわれる『讃留霊王(武殻王)』の父です建貝児王のまたの名前を武殻王・武卵王・武皷王・武養蚕命・多祁比古王命・武明王、武殻王（吉備穴戸媛生武皷王）は讃留王と呼ばれ、讃岐綾君(さぬきあやきみ)の祖となった。（栗田寛：新撰姓氏録考証による）建貝児王も、軍事にすぐれていたようで、壱岐、平戸、三河の神社で祀られている。景行天皇５１年の条に『妃吉備武彦之女吉備穴戸媛生武皷王与十別城王其兄卵王是讃岐綾君の始祖也』とある。日本武尊吉備穴戸の悪神を誅し給ふ時吉備国に幸し吉備穴戸武媛武殻王を生む。王亦悪神を誅するの功により讃岐に留まり香川郡以西は王の領有となり當社を崇敬し給ふ。武殻王四世の裔綾眞玉の子酒部黒麿は世に城山長者と云ふ。四十六代孝謙天皇に奏し酒を献じ奉る。帝大いに賞し玉ひ勅ありて酒部の姓を賜ひ酒部黒麿と號す。</p>
<p>垂水神社(那賀郡三宅の里　垂水村字行時)武殻王 </p>
<p>「讃留霊公の政事を行いし時、 この村に広き松原あり。その中に三本の大樹ありて常に枝葉繁れるが、この木の枝枝の葉に 水を含み、滴る露、雨のごとくなり。霊公不思議に思し召され、この下に水神が鎮まりおわし 座さんと宣いて&amp;#44;即ち社を建て三女神（註、田心姫命、瑞津姫命、市杵島姫命）を合祀し、太留水 社（たるみのやしろ）と称し奉り、これにより豊年うち続きたればこの地を垂水と名づけたり」とあります。</p>
<p>富隈神社(高篠村大字公文字山内)吉備武彦命</p>
<p>木烏神社(本島村大字本島字甲松ヶ浦)讃留霊王</p>
<p>宇夫階神社(宇多津町字西町)武殻王</p>
<p>春日神社(川津村字春日)武殻王 </p>
<p>讃留霊王（武殻王）を祀る神社は、西讃岐に多い。穂積も同じ。讃岐の三野郡の三野物部が有名。</p>
<p>阿野郡陶村に有る讃留霊王の社、那珂郡興北村の讃留霊王の社、共に神櫛王を祀っている。</p>
<p>志々岐神社「武加比古王」長崎県壱岐郡石田町南触</p>
<p>神功皇后の新羅遠征に、十城別王、稚武王とともに、参戦した可能性がある。</p>
<p>宮道天神社「建貝兒王」愛知県宝飯郡音羽町大字赤坂</p>
<p>建貝児王が宮道別の祖であり、その子の宮道宿禰速麿は穂国の県主（国造の下位の地方長官）となられ、その子孫は引き続き当地に在住し、ある時、その祖である建貝児王を祀ったのが宮道天神社</p>
<p><strong>白鳥神社　香川県東かがわ市松原　日本武尊　両道入姫命　橘姫命</strong></p>
<p>「成務天皇の時代、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武皷王に従わせて、讃岐の国造に封じ神陵を作らせる（武皷王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり）。日本武尊の御子　仲哀天皇の時代神籬を建て封戸を寄らせる。今の神社即ちその御跡である。」</p>
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 <title>古代史の旅２：神功皇后と日本武尊の子供、稚武王、十城別王、建貝児王  :: 歴史随想</title>
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 <description>景行天皇の時代に、その子の日本武尊の東征によって、東国の支配が進んだ。景行天皇は、皇太子の時代に播磨へ出向かれ、播磨太郎姫と出会い、子の日本武尊、政務天皇をもうけられることで、播磨や吉備と連携して、王権の拡大に努めた。この時代こそが、東西に...</description>
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 <pubDate>Fri, 05 Mar 2010 08:03:40 +0900</pubDate>
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 <![CDATA[<p>景行天皇の時代に、その子の日本武尊の東征によって、東国の支配が進んだ。景行天皇は、皇太子の時代に播磨へ出向かれ、播磨太郎姫と出会い、子の日本武尊、政務天皇をもうけられることで、播磨や吉備と連携して、王権の拡大に努めた。この時代こそが、東西に古墳が広がり、鉄の利用が広がった開拓の時代であった。</p>
<p>播磨風土記においては、景行が天皇となってから、「加古川流域の高宮というところを新居に選び、酒蔵や倉庫を築いて暮らしますが、しばらくして城宮（きのみや）というところに移り無事正式な婚儀を結ぶ。」ともある。景行天皇は、皇太子時代から西方に関心をもっておられた。播磨、吉備に安定的な関係を築かねば、熊襲征伐はおぼつかない。播磨太郎姫との結婚がこれを可能にし、東国遠征に、日本武尊と吉備武彦を行かせた。日本武尊は吉備穴戸武姫（書紀では吉備武彦の子、古事記では妹）と結婚し、十城別王（兄）建貝児王（弟）を生む。そして、この子供たちは、日本武尊の夢を引き継いで、仲哀天皇の九州遠征や神功皇后の新羅遠征に参加したようです。</p>
<p><strong>神功皇后と仲哀天皇</strong></p>
<p>気長宿禰王には日本武尊の亡くなった前年に生まれた気長足姫（おきながたらしひめ）という才色兼備の娘があった。この娘を気長宿禰王は、尊崇してやまない日本武尊の第二子の足仲彦（たらしなかつひこ。仲哀天皇）に妻合わせたいと考えていた。 しかし、気長足姫にも足仲彦にも、その気は共に薄く、むしろ気長足姫は成務天皇に好意を抱いているようであった。父親の気長宿禰王は、 日本武尊の果たせなかった天皇になる夢を、その第二子の足仲彦に託し、支援していた。 </p>
<p><strong><span style="color:#0015ad;">日本武尊と吉備武彦の一族</span></strong></p>
<p>景行天皇----日本武尊　　　　　　　　＋----十城別王（兄）建貝児王（弟）吉備武彦----吉備穴戸武姫（古事記では妹）</p>
<p>建貝児王は讃岐の綾の君・伊勢の別・登袁別(とおのわけ)・麻佐首(あささのおびと)・宮道別(みやじのわけ)らの祖先です。伝承地は、三河の宮道天神社、壱岐、平戸の志々岐神社など広域にわたる。</p>
<p>吉備武彦（孝霊天皇の孫）は、景行天皇即位の四十年、従兄弟である日本武尊（やまとたけるのみこと）の東征に従って副官となり、蝦夷平定の後、尊を奉じて北越に行き、その後、日本武尊の死後、遺命を奉じて京師にこれを復命したといいます。</p>
<p>吉備武彦の子供たちは、その功によって、吉備や東国の国造となっている。政務天皇の時代に東国に多数の国造が置かれた。</p>
<p>吉備武彦----吉備穴戸武姫（日本武尊の妃）</p>
<p>吉備武彦----意加部彦命（廬原国造）</p>
<p>吉備武彦----建功狭日命（角鹿国造）</p>
<p>吉備武彦----御友別命----稲速別（下道国造）、仲彦（賀陽氏国造）、弟彦（三野国造）--仲彦の子の多佐臣（上道国造）</p>
<p>吉備武彦----鴨別命----笠三枚臣（笠臣国造）</p>
<p><strong><span style="color:#0006cc;">日本武尊と弟橘媛の子の稚武彦王</span></strong></p>
<p>景行天皇------日本武尊　　　　　　　　　　＋----稚武彦王穂積忍山宿禰----弟橘媛</p>
<p>また、弟橘媛の父の穂積忍山宿禰は、相模国の西側の磯長の国の領主となる。一方、穂積忍山宿禰の子の穂積忍山彦根（弟橘媛の兄）は、神櫛王とともの讃岐を治め、金比羅山の大麻神社の祭主となって代々続いている。</p>
<p><strong><span style="color:#1600b7;">神功皇后の新羅遠征と日本武尊の子供（讃岐と伊予の王）</span></strong></p>
<p><strong>日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦を同行させることが、その女（むすめ）吉備穴戸武媛と尊の間の子が讃岐（建貝児王）、伊予（十城別王）へと展開することになるが、不思議なことに、この二人は、神功皇后の新羅遠征に参加している。書紀では、神功皇后と竹内宿禰ばかりの記載が目立つが、神社伝承をたどるとそこには、さまざまな悲劇があったようだ。日本武尊の子供たちの事績は、歴史の闇に消えようとしているので、ここに記しておきたい。また、神功皇后の新羅遠征を夢物語のように説くものも多いが、それにリアリティがあることを記すためにも伝承をまとめておきたい。</strong></p>
<p><strong><span style="color:#0020ad;">壱岐、平戸の伝承</span></strong></p>
<p>志々岐神社：壱岐市石田町南触には、十城別王・武加比古王・日本武尊が祀られている。神功皇后が三韓に出兵したときに十城別王、稚武王も従軍したと伝える。また武加比古王は、讃岐の建貝児王のことであると伝わる。</p>
<p><strong><span style="color:#040099;">霊峰志々伎山（平戸市野子町；平戸の南端、標高347m）と 十城別王に因む志々伎山神社</span></strong></p>
<p>長崎県内でも最古の神社の1つで上宮（志々伎山山頂）・中宮・邊都宮（里宮・伝景行天皇行宮跡）・沖津宮（十城別王武器庫跡・十城別王御陵墓）で構成されてる。「凱旋後に十城別王は平戸に残り、配下の武将の七郎氏広と共に朝鮮半島への警備に当たりこの地で没した。そして十城別王は平戸島南端の宮ノ浦・志々伎神社に、七郎氏広は平戸島北側にある田ノ浦・七郎宮（田ノ浦は弘法大師が遣唐使で出発した所として有名、平戸松浦氏が尊祟の神社はこの七郎宮・現在平戸城内亀岡神社と合祀）にそれぞれまつられた」という。『平戸藩史考』によると、志自岐七郎左衛門は志自岐左衛門氏廣といい、十城別王（平戸志々伎神社の祭神）とともに三韓征伐に従軍した武将で、帰国後は平戸に駐留して平戸海峡を守る役を任じられ、中央との連絡をとりながら西海の防禦役も果たしたとのことである。</p>
<p>志々伎神社の邊都宮跡からは環頭の太刀・神鏡・朝鮮古代焼の瓶・三刀鉾などの朝鮮とのル−トを伺わせるものが多数発見されている。瓶のうちの一つは朝鮮の古都楽浪で大正14年に発見されたものと同一形式でまた別の一つも出雲大社に残る宝物と同一形式のものとの事。</p>
<p><strong><span style="color:#1500a8;">唐津市の松浦明神</span></strong></p>
<p>田島神社：佐賀県唐津市呼子町加部島には、松浦明神がある。御祭神は田心姫尊、湍津姫尊、市杵島姫尊である。相には大山祇神とともに。稚武王が祀られている。旧国幣中社であり、延喜式内社であり、肥前の国最古の神社である事は延喜式に見える。稚武王（仲哀天皇の弟）の弟十城別王を祀る志志岐神社（長崎県平戸市）を下松浦明神と称するのに対し、当神社を上松浦明神という。このことは、王族の稚武王と十城別王の軍が新羅遠征の主力であったことが伺える。</p>
<p><strong><span style="color:#0500ad;">環頭の太刀：平戸市平戸城に保管・展示</span></strong></p>
<p>亀岡神社の社伝によると、亀岡神社合祀前の七郎宮の社宝として伝わっていたもので、神功皇后の朝鮮出兵に従軍した武将七郎氏広の佩刀と伝えられ、同類が辺境の警備にあたった十城別王が祭られている志々伎神社と、七郎氏広の弟鴨一隼が祭られている小値賀島神島神社に伝わっていたといわれる。</p>
<p>神島宮(長崎県北松浦郡小値賀)：一速王（日本武尊）を祀り十城別王氏広王を合祀する創建：大宝四（７０４）年、神託によって上宮を野崎島に設け辺津宮・沖津宮と併せて一社となし神島宮と称したと伝えられる.</p>
<p><strong><span style="color:#0014d6;">壱岐直真根子と謎の雷大臣</span></strong></p>
<p>神功皇后が、三韓征伐をするときに、壱岐からは、雷大臣(いかつちのおうおみ)と壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)の親子が一緒に行きました。雷大臣(いかつちのおうおみ)は、出兵から帰国後、再び百済に行ってこの国を治めました。その後、対馬に行ってそこにとどまり、その子孫は壱岐や対馬で、占部(うらべ)になりました。霹靂（いかづち）神社（長崎県対馬市上対馬町大字浜久須）には、神社明細帳に「神功皇后の時、雷大臣・安曇磯武良を新羅に遣わし、雷大臣彼地で女を娶り一男を産む。名を日本大臣と云う。新羅より帰り給う時、浜久須へ上り給う古跡なり。」 という。雷大臣命とは、神功皇后の審神者（サニワ）を勤めた中臣烏賊使主のことであり、 『新撰姓氏録』に天児屋根命十四世孫とある。 当地が、雷大臣命の住居跡であり、亀卜発祥の地。 社殿や社殿内の幕に橘の紋が付けられているよいう。定かではないが、神功皇后に新羅遠征を占った中臣烏賊使主は、重要な役割を果たしており、後の藤原氏の発生につながるのかもしれない。</p>
<p><strong><span style="color:#000bbc;">志式神社（福岡県東区大字奈多字宮山）：志志岐の三神を祀る</span></strong></p>
<p>志志岐の三神とは十域別の神（弟）稚武王（兄）と葉山姫神である。</p>
<p>筑前風土記拾遺によると、「志志岐神社の二人とも、仲哀天皇の弟であり、応神天皇の叔父にあたる。神功皇后の三韓征伐の時に、武将としてお供した。」という。葉山大明神は日本紀に言う、摂津の国武庫郡西宮郷、広田大明神である。山背国造は、神功皇后の命で広田神社を祭った葉山媛と長田神社を祭った長媛の父である。長田神社は、新羅より御帰還の途中、武庫の水門に於て「吾を御心長田の国に祠れ」とのお告げを受けて、山背根子の女・長媛を奉仕者として創祀されたという。これは、明神大社の広田神社、長田神社の始まりである。対馬には烏賊津（雷大臣）の住居跡とされる雷命神社があり、彼の息子が壱岐真根子（いきのまねこ）である 。高良大社の旧記に「真根子は朝のためには忠にして、友に交わり信あり、賢きを招き智あり、命を捨てて勇あり」と大いに賞賛されている。</p>
<p><strong>吉備武彦一族の隆盛</strong></p>
<p>吉備武彦の子の鴨別（かもわけ）は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。鴨別命は御友別の弟である。皇后は身重であったが、亡き仲哀天皇の遺志を継ぎ、熊襲征伐の軍を進めた。熊襲の本拠地である南部九州には武将・鴨別を遣わし、自らは北部九州の反乱勢力である羽白熊鷲（ハバクノウタカ）の掃討に赴いた。鴨別はほどなく熊襲征伐を終えている。吉備御友別の子の兄媛は、その後、応神天皇の妃となり、黒媛は仁徳天皇の妃となった。応神天皇妃&amp;#44;兄媛の兄。応神天皇が兄媛を伴って難波に行幸し&amp;#44;高台に登ったとき&amp;#44;兄媛は西を眺めて父母をしのんで嘆き&amp;#44;帰郷を願う。吉備の父母を恋しがったので、応神が淡路の三原の海人八十人を水手として、吉備に里帰りさせた。因みに淡路は阿曇氏の本拠の一つである。兄の功績に肖って織部を賜っている。応神天皇の時代に、その功績で吉備武彦の子孫は国造として繁栄している。</p>
<p>上道国造１５応神：中彦命：吉備武彦の兒　御友別の中子</p>
<p>三野国造１５応神：中彦命の弟・・岡山県岡山市、加賀郡の一部（備前国御野郡御野郷）</p>
<p>下道国造１５応神：元封・中彦命</p>
<p>笠臣国造１５応神：元封・鴨別命の八世孫　笠三枚臣・岡山県笠岡市？</p>
<p>賀陽氏はこの賀陽采女(若媛)の祖父、賀陽高室に始まる備中吉備津神社の社家である。その五代前の御友別の子、仲彦が既に賀陽国造になっている。「賀陽」は岡山県上房郡賀陽町にその名を残すが、古くは「加陽」「加夜」などとも表記するが、加羅(伽耶)つまり任那のことになる。吉備にカヤとつく郡があり地名も多い。</p>
<p><strong>海部、山部、山守部、伊勢部の始まりは応神の時代</strong></p>
<p>古事記応神記（第十五代）には「此之御世定賜海部・山部・山守部・伊勢部也」とあり海部と伊勢部の始まりか。</p>
<p>高良山の麓にある高樹神社の祭神は、高木神＝高牟礼神という。昔、高良大社のある高良山は高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれており、高木神がその地主神であられたという 。玉垂命は「神功皇后と結婚された」と、高良大社の伝承にはある。籐大臣連保と名付けて京（みやこ）へ連れて行ったとのことである。</p>
<p><strong>宮地嶽神社の勝村大神と勝頼大神の謎</strong></p>
<p>「新羅征伐の御船出を此の地よりなされた処から「宮地」と呼ばれ。背後の山を「宮地嶽」と称しこれが社名となった。そして神功皇后が信仰されていた天津神の遥拝祠を建て二柱の御従神、勝頼・勝村の二柱の御従神に此の祠掌を命ぜられ、後皇后の御神魂を合祭され、此処に初めて宮地嶽神社が設立された。」という。二柱の御従神は、一説には、勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)となっている。何故、藤原氏なのであろうか？。雷大臣の子供かもしれない。</p>
<p>あるいは・・。忌宮神社(長府宮の内町)の伝承は、宮内を守護する阿部高麿、助麿の名を伝えているので、これが勝村大神(藤之高麿)と勝頼大神(藤之助麿)かもしれない。</p>
<p>仲哀天皇は、穴門（長門）豊浦（長府）に、仮の皇居を興されたが仲哀七年旧暦の七月に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭（八月七日より十三日まで毎夜行われる祭）の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。 </p>
<p>また、二柱の御従神というからには、勝村大神と勝頼大神は、王族の十城別王、稚武王のご兄弟かもしれない。残念ながら、確認できる伝承がない。</p>
<p><strong>伊予西条市の伝承</strong></p>
<p>伊予は、御村別王と十城別王の地である。</p>
<p>伊曽乃神社（ 愛媛県西条市中野甲）：天照大神、武国凝別命を祭神とし、成務天皇時代の創建という古い歴史をもつ。西条の地は成務天皇の時代に武国凝別命が皇威を弘めたと伝えられる「御村（みむら）」の地なのである。「先代旧事本紀』には景行天皇の皇子のひとりに武國皇別命がいて、「伊予御城別・添御杖君の祖」としている。飯積神社（西条市下島山）の標柱に「武国凝別命の孫、十城別命」との説明がある。武国凝別皇子。景行天皇の第12皇子。母は阿倍氏木事の女・高田媛。伊予国平定のために派遣され、神野郡（後の新居郡、現在の愛媛県新居浜市・西条市他）に拠点を置いたと伝える。昔、第14代仲哀天皇がそこに舟を着け、櫟を折って笏にしたという伝承から、櫟津（いちいづ）と名付けられたとのことである。『伊豫温故録では仲哀天皇行宮跡 が玉津村字帝（ミカド）に在ったという。此地往古は一の岡陵にして櫟津岡と稱し仲哀天皇南國御巡幸のとき行宮を作り御駐輦あらせられたり因て帝と稱す帝は御門なり行宮の立ちしより人民群集して住居し上永易といふ寛永四丁亥年10月４日大地震に岡陵陥没して水湛へ沼となりけり故に里民四方に散居す其の後沼を埋めて水田となせり……中略…… 又此里人の云ふ下島山村に一小丘ありて飯積神社を祭る今彼村にて櫟津岡と稱せり飯積の名たる其の丘形を以て名付けたるものなり其の古名も飯積岡なるを後人櫟津岡に附會して名付けたるものなんと云えり。また、阿沼美神社（松山市平田町）社伝によると12代景行天皇の皇子武国凝別(御村別の祖)日本武尊の御子十城別王(別王の祖)の宮居された所であったという。別氏の末裔が阿沼美の神を奉斎したが、別氏没落後、河野氏が三島の神を合祀し、「阿沼美三島明神」と称したという。</p>
<p><strong>播磨に来た新羅の王子の未斯欣(微叱己知)</strong></p>
<p>『神功紀』九年冬十月三日の条に「新羅王の波沙寝錦（はさむきん）は、微叱己知珍干岐（みしこちとりかんき）を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・かとり絹を沢山船にのせて軍船に従わせた。」とある。一方、『三国史記』には、実聖王元年(402)３月に倭国と通好して、奈勿王の子・未斯欣を人質としたが、納祗王（ヌルジワン）二年(西暦４１８年)の秋に王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰ったと記している。</p>
<p>新羅本紀第三　実聖王　尼師今の七年（西暦408年）条には、実聖王は倭人（日本人）が対馬に基地を設置して、武器と資材・食糧を貯えて、新羅を襲おうと準備しているという情報を手に入れた。王は、倭（日本）が動き出す前に精鋭の兵を選び、敵の兵站基地を撃破しようと思ったが、部下の未斯品が諌めて言った。「兵は凶器であり戦は危険な事です。ましてや大海を渡って他国を討伐し、万が一に勝つことができなければ、後で悔やんでも仕方ありません。」これに従って王は思いとどまった。</p>
<p>高句麗好太王碑文の記録</p>
<p>「百済や新羅は元々高句麗の臣属していて、朝貢していた。ところが三九一年辛卯年、倭は海を渡り百済□□新羅を打ち破って臣下とした。 」辛卯年つまり391年の神功皇后新羅侵攻の年であろう。新羅侵攻は、神功皇后紀に何回かある。</p>
<p>要すれば</p>
<p><strong>１．神功皇后の新羅遠征には、多くの王族が参加している。特に、伊予と讃岐の日本武尊の子、すなわち仲哀天皇の兄弟たちが参戦した。その代表は、十城別王、稚武王、建貝児王、鴨別命である。</p>
<p>２．神社伝承から見て、新羅遠征はリアリティがあり、史実であろう。</p>
<p>３．新羅の王子の未斯欣が人質となった記録から、これらは4世紀末の時代であり、壱岐や対馬の神社伝承から、これらの島々の人々、安曇の連らとともに、遠征を実行した。また、高句麗好太王碑文からも伺える。</strong></p>
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